共感するってなんだろう
最近 「他我問題」というものを知りました。
他我問題的なことはよく考えてたけど、他我問題っていう名前がついてるのは初めて知った。
他我問題っていうのは 〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。 らしいです。コトバンクより。
ここで信号の例を出してみる。
信号が赤なら止まる、青なら進むっていうのは日本社会のルールの一つですね。小さい頃から、当たり前のように教え込まれてきてる。
でも、ちょっと、待った。
私が「赤」だと認識している色は、本当に他人にとっても同じ「赤」なのか?
これを知る術ってないんです。当たり前だけど。
だって私があなたになる事は、絶対にできないし、あなたが見ている「赤」を直接的に体験する方法は存在しないから。
でもね、類推はできます。
「赤」に対する反応がほぼ同じであれば、きっと私とあなたの見ている「赤」は一緒なのだろうと「見なす」ことはできる。
だから、信号はちゃんと機能してるし、交差点だってグチャグチャにならない。
「おい!信号青だろ!進めよ!」
「ちげえよ!赤だよ!」
「いや、私には黄色に見えるんですが.... 」
ていう声が同時に上がる、みたいなカオスなことにはならない。
良かった良かった、メデタシメデタシ
だけどやっぱりこの「赤」は、「見なし」の枠からでることはできない。直接的に相手の目を通して「赤」を見ることができない限りは。
じゃあ、次にこれを「共感」に当てはめてみる。
人間は、言語として表出された他人の感情を一度自分の中に取り込んだ時に、その感情が、自分が過去に感じたものと似ていると、「共感する〜」と感じます。
でもここには問題が隠されてる。
というのも、
「言語として表出された他人の感情を自分の中に取り込む」
という作業を行うときに、一定のバイアスがかかっちゃうから。
人間は過去に自分が経験したものをベースに情報を処理するので、同じ情報を受け取ったとしても、処理する過程で、個人個人の癖みたいなものが出るのは避けられないのです。
あれですね、知っている言語の制約の中でしか、ものを思考することができないっていうのと似ていますね。
日本語しか知らない人は、無意識的に日本語の制約の中で思考しているので、
日本語にない概念について考えることは、とっても大変という話と同じ構造。
自分の経験という制約の中でしか、感じることができないので、
相手の気持ちを理解しようとしていても、自分が経験したことにどうしても寄っていってしまうという。
つまり何が言いたいかっていうと、
他人の「赤」が自分の「赤」と全く同じかどうかを知る術がないのと同じように、
他人の感情をそのまま他人が感じたように受け取ることは不可能ということです。
よく考えると本当に当たり前のことだけど。でも意外と忘れがち。
例えば、友人が「お腹が痛くて辛い」と言っていたときに、「辛そう〜」と共感したとする。
このとき、私は何をしているかというと、自分が過去にお腹が痛かった時に記憶を思い起こして、その痛みを想起して、「辛そう〜」と共感した訳です。
ここに、これは果たしてこれは本当に共感していると言えるのか?
という問いが生まれます。
友人のお腹の痛みを、友人に成り代わって感じることが不可能が故に、
「自分の過去の体験から類推する」という分厚いクッションが間に挟んで行われた共感は本当に共感と言えるのか?
この問題を考え始めるといつも、サラッサラの砂の上にお城を立ててるみたいなイメージが私は浮かぶ。
生きていく上で人と関わっていくことは不可欠だし、とっても大事だけど、でも本当の意味で共感しあうのは不可能なのかもしれないっていう。
「共感」の根底が揺らいでいるのかもしれないっていう。
だけど、本当の意味で共感できたらできたで、他人と自分の境目がどんどん曖昧になっていくのかと思うと、それもそれで怖い。
私があなたで、あなたが私で、あれ....? みたいなことになりかねない。ありえないけど。
個を確立させれば、孤独は避けられないし、(←人間イマココ)
他者と本質的に交わって、共感できるようになれば、個が滅するっていう。
こんなこと考えてたら、今年もクリスマスが来た。クリぼっち。
共感が...とかいう前にもうちょっと建設的な何かをした方がいいんじゃないかっていう。
建ててるお城の下のサラッサラの砂に関する杞憂は一旦忘れて、とりあえず何か建てた方がいいんじゃないかっていう。
今度は、他我問題の個人的な解決方法について考えてみる。