子羊はなぜ群を離れたのか

日々考えていることを発散する場

2018年を振り返る

毎年、私は31日に一年の振り返りをしていると思っていた。

 

FBの投稿を見回してみた。どこにもそんなものは見当たらなかった。

実家に戻っているのをいいことに、過去のスケジュール帳を引っ張り出してきた。そんなものは見当たらなかった。

 

代わりに、網タイツのお姉さんを描いた落書きは見つかった。キューバの空港で働いていたお姉さんの落書き。仕事は雑だけど、セクシーだった彼女は元気にしているだろうか。

 


結論、振り返っていなかった。毎年振り返りを欠かさないマメな人間だと信じていたが、そんなマメさはなかった。妄想だった。

ということで、今年から振り返り、始めます。

 

<環境の変化について>

関わる人、立場、住む場所、仕事。「環境」といった時に含まれる、ほぼ全ての事が変わった。が、自分でも驚くほどあまり変化を意識していなかった。というのも、変化によるストレスをほぼ感じていなかったのだ。

私の感受性が皆無、もしくはストレス耐性が最強という説もあるが、「ポジティブな変化しかなかったので、瞬時に順応できた」という説が濃厚だ。恵まれているし、非常にラッキーである。毎年思う事だけれど、本当に今までの人生、運だけはある。

 

 

<内面の変化について>

自分の得意なことと苦手なことが見えてきて、まだ好きな事はわからない、というのが今年の着地。

 

・得意な事
たくさんあるものの中から共通項を見つけて、物事の抽象度をあげること。
面倒な事を仕組みで解決する構造を考えること。
客観的に自分の状態を把握する事。

 

・苦手な事
面倒で意味が感じられないこと全般。
自分である必要性がわからないまま動き続ける事。
違和感や課題感を見過ごすこと。
変化や改善のスピードが遅いこと。
妥協すること。
自分の気持ちを把握して、伝えて、巻き込むこと。

シンプルに考えること。

 

・好きな事(?)
感じた事を表現する事。(手段はなんでも。服、文章、絵、図etc)
考え続けて、仮説やアイディアを生み出すこと。
こだわりのある人たちと交流すること。
美しいものに触れる事。(美しいものならなんでも。絵画、器、道具、人etc.)

 

 

並べてみると、苦手なことへの気づきが多い。来年はこれがどう肉付けされていくのでしょうか。好きな事の分類が増えたら良い。

 

 

 

 

網タイツのおねぇさん。

 

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天草四郎時貞

 

天草四郎時貞って万能な言葉だと思ってます。

 

 

 

私と天草四郎時貞との出会いは、友達の紹介でした。

 

無性に言いたくなる言葉の話を友達としていた時に、

天草四郎時貞がいい」って紹介してくれた人がいたのです。

 

 

 

そう、出会いは突然に。

 

 

 

それまでは天草四郎に時貞っておまけがついてたことも知らなかった

(世界史選択の弱み、というよりは教養の有無の問題な気がする)

 

 

 

それが、出会っちゃったんです

友達の紹介で。

 

 

 

 

 

 

いや、確かに、いい!

天草四郎時貞、いい!

 

 

 

 

アマクサシロウトキサダッ

何度でも言いたい。

 

 

アマクサシロウトキサダッ

アマクサシロウトキサダッ

 

 

しかもその子、お父さんに何かものを渡す時に、「天草四郎時貞」って言いながら渡すことあるって言ってた( ※ ちなみに名誉のために言い添えると、彼女は思わず振り返るほどの美少女です。いつ見ても、どの角度から見ても。)

 

 

賢いわ〜

 

 

だって重厚感増すもん

 

 

その渡してるものがティッシュ1枚だとしても、小石ぐらいの重さに変わる気がするもん

ただ一言「天草四郎時貞」を言い添えるだけで。

 

 

 

この場合ちょっと狂言風の方が効果上がりますね

天草四郎〜時貞〜ってやった方がパフォーマンス上がる

 

 

 

なんかこうなると、もはや全ての質問に天草四郎時貞で答えられる気がする。

 

 

これ頼んでいい?

天草四郎時貞

 

今日天気いいね

天草四郎ときさだ〜

 

 

どんな返しにも使える気がする

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、ただ問題は会話が成立しないところ

 

語感的に成立してるように錯覚するけど、

悲しいことに全然成立してない。

 

 

失礼ですが、お名前は? とか

好きな芸能人は?

 

とかの質問が、運よく一発目にこない限り、成立しない

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに天草四郎時貞と同格でお気に入りの語感は、

バルサミコ酢ゲシュタルト崩壊

 

最近ここに、消耗品費が仲間入りしました。以後お見知り置きを。

 

 

 

 

 

 

こんな下らないこと考えてたら、ラーメンズ日本語学校見たくなってきた

語感好きにはたまらないやつ

 

 

 

 

暇な方、チェケラ。

 

 

 

 

 

それから隠れ語感フェチのかた、私にこっそりオススメの言葉を教えてください

 

 

 

 

 

 

というか、新年1本目だった、この記事

 

ネタを間違えた感。

 

 

 

ま、いっか

天草四郎時貞ってもれなくオメデタイ感じもするし、語感的に。

 

 

 

 

 

 

 

 

討たれちゃったけどね

 

 

 

おまけに出島の正面に晒されちゃったみたいだけどね

(わざわざwikipediaで調べました、死に方を)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

共感するってなんだろう 続き

 

で、この他我問題、小さい頃からずっと、なんとなーく感じてた気がするんですよね。

(引き続き、性懲りもなく砂のことについて考えます)

 

 

「なんで私のこと分かってくれないの!」とか、物心ついてから言った覚えないし。

(忘れているだけかもしれない)

 

 

自分と他者が全然異なる考えをする場面に遭遇した分だけ、

「ああ、やっぱり、他者と自分は近づくことはできても、完全に重なることができないんだな」って感じてた。

同時にそれをとても面白くも感じてはいたけれど。

 

 

で、問題なのは、ここでいつも私は線を引いてた。

あ、やっぱりこの人も自分とは違った!はい、私とあなたは違いますね、だから間に線ひきますよって。

 

 

拒絶的な意味というよりは、とりあえず違うっていうことを忘れないように線を引いてた。

だって、うっかり「違う」ってことを忘れてて全力で近づいちゃうと、違うことを目の当たりにした時にショックだから。 

 

 

で、本当に当たり前なんですけど、この作業を始めたら、死ぬまでやめられない。

だって、自分と同じ人なんていないもの

同じ人がいる方が恐怖だしね。

 

 

 

じゃあ、この他我問題が解決されない今、どうしたらいいのかっていうと、

永遠に重なり合わない他者と自分の距離をできるだけ近づけるべく、

積極的に自己を見せていくっていうことではなかろうか。

線を引くのではなく。

 

 

 

という結論(仮)に至りました。

 

 

そう、結論が小学生レベル。

多分小学生が体感的に習得しているものを、今更理解するあたりに歪みを感じます。

 

 

でもいかんせん、私はこれが苦手。結構苦手。

自己開示レベルがあるとするなら、お粗末だと思う。

経験値を上げてきていないので、lv.1で止まってる

 

 

今のところ、私の自己って、あまりにも豆が小さくて出すのに凄く苦労する枝豆と同レベル。

あまりに出なくて、最終的に出すの諦めるやつ。

自意識という3重ぐらいになった鞘に押しつぶされて、全然出て来ない。

 

 

というか、どうかするとそこに豆があることすら、気がつかれないレベル。

もはや鞘としての価値しか与えられない。

 

 

 

でも、そろそろもうちょっとウェットになることを覚えて、人間味を増したい。

今は、10日間旅行で家空けた後の鉢植え並のドライ感だと思うので、

せめて4日前に水をあげたレベルまで持っていきたい。

 

 

決めました来年の目標、「ウェットな人間になる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんか、ちょっと、汚そう。

字面が汚そう。

 

 

というか、表記的にウエットなの?ウェットなの?

後者だと、アメリカ被れ感ある。

マクダーーナルッと同じ香りが漂う。

 

 

 

あ、もう一個あった、

 

 

 

 

「友達を増やす」

 

 

  

 

 

ちなみに現在に至るまで、この他我問題を乗り越える方法は分かっていません。

答えられたらノーベル賞もらえるレベルらしい。

 

誰か頑張って見つけて。

 

 

 

 

チャンチャン。

 

 

 

 

 

 

 

 

共感するってなんだろう

 

最近 「他我問題」というものを知りました。

他我問題的なことはよく考えてたけど、他我問題っていう名前がついてるのは初めて知った。

 

 

他我問題っていうのは 〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。 らしいです。コトバンクより。

 

ここで信号の例を出してみる。

 

信号が赤なら止まる、青なら進むっていうのは日本社会のルールの一つですね。小さい頃から、当たり前のように教え込まれてきてる。

 

でも、ちょっと、待った。

私が「赤」だと認識している色は、本当に他人にとっても同じ「赤」なのか?

 

これを知る術ってないんです。当たり前だけど。

だって私があなたになる事は、絶対にできないし、あなたが見ている「赤」を直接的に体験する方法は存在しないから。

 

 

でもね、類推はできます。

「赤」に対する反応がほぼ同じであれば、きっと私とあなたの見ている「赤」は一緒なのだろうと「見なす」ことはできる。

だから、信号はちゃんと機能してるし、交差点だってグチャグチャにならない。

 

「おい!信号青だろ!進めよ!」

「ちげえよ!赤だよ!」

「いや、私には黄色に見えるんですが.... 」

 

ていう声が同時に上がる、みたいなカオスなことにはならない。

良かった良かった、メデタシメデタシ

 

 

 

だけどやっぱりこの「赤」は、「見なし」の枠からでることはできない。直接的に相手の目を通して「赤」を見ることができない限りは。

 

 

 

じゃあ、次にこれを「共感」に当てはめてみる。

 

人間は、言語として表出された他人の感情を一度自分の中に取り込んだ時に、その感情が、自分が過去に感じたものと似ていると、「共感する〜」と感じます。

 

でもここには問題が隠されてる。

 

というのも、

「言語として表出された他人の感情を自分の中に取り込む」

という作業を行うときに、一定のバイアスがかかっちゃうから。

 

人間は過去に自分が経験したものをベースに情報を処理するので、同じ情報を受け取ったとしても、処理する過程で、個人個人の癖みたいなものが出るのは避けられないのです。

 

あれですね、知っている言語の制約の中でしか、ものを思考することができないっていうのと似ていますね。

日本語しか知らない人は、無意識的に日本語の制約の中で思考しているので、

日本語にない概念について考えることは、とっても大変という話と同じ構造。

 

自分の経験という制約の中でしか、感じることができないので、

相手の気持ちを理解しようとしていても、自分が経験したことにどうしても寄っていってしまうという。

 

 

 

つまり何が言いたいかっていうと、

他人の「赤」が自分の「赤」と全く同じかどうかを知る術がないのと同じように、

他人の感情をそのまま他人が感じたように受け取ることは不可能ということです。

 

よく考えると本当に当たり前のことだけど。でも意外と忘れがち。

 

 

例えば、友人が「お腹が痛くて辛い」と言っていたときに、「辛そう〜」と共感したとする。

このとき、私は何をしているかというと、自分が過去にお腹が痛かった時に記憶を思い起こして、その痛みを想起して、「辛そう〜」と共感した訳です。

 

ここに、これは果たしてこれは本当に共感していると言えるのか?

という問いが生まれます。

 

友人のお腹の痛みを、友人に成り代わって感じることが不可能が故に、

「自分の過去の体験から類推する」という分厚いクッションが間に挟んで行われた共感は本当に共感と言えるのか?

 

 

この問題を考え始めるといつも、サラッサラの砂の上にお城を立ててるみたいなイメージが私は浮かぶ

 

生きていく上で人と関わっていくことは不可欠だし、とっても大事だけど、でも本当の意味で共感しあうのは不可能なのかもしれないっていう。

「共感」の根底が揺らいでいるのかもしれないっていう。

 

 

だけど、本当の意味で共感できたらできたで、他人と自分の境目がどんどん曖昧になっていくのかと思うと、それもそれで怖い。

 

私があなたで、あなたが私で、あれ....? みたいなことになりかねない。ありえないけど。

 

 

個を確立させれば、孤独は避けられないし、(←人間イマココ)

他者と本質的に交わって、共感できるようになれば、個が滅するっていう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなこと考えてたら、今年もクリスマスが来た。クリぼっち。

 

共感が...とかいう前にもうちょっと建設的な何かをした方がいいんじゃないかっていう。

 

建ててるお城の下のサラッサラの砂に関する杞憂は一旦忘れて、とりあえず何か建てた方がいいんじゃないかっていう。

 

 

 

今度は、他我問題の個人的な解決方法について考えてみる。

lostsheeep.hatenablog.com

 

 

 

 

筆箱がない

筆箱がね、ないんです。

 

結構お気に入りだった茶色い革のやつ。

Herzのやつ。

 

1年ぐらいしか使ってない割に、いい味出てたのに。(扱いが雑だから)

 

 

最近筆箱見てないな、とは思ってたんです。

筆箱ないな〜どこだろうな〜とは思ってた。

 

でも、実際ペンを使うシーンがあまり無くて、ボールペン1本カバンに放り込んどけば事足りる事が多かったから、

ベットの隙間に落ちてるだろう、ぐらいの気持ちで本気で探してなかった。

 

 

ところが、

ただいま絶賛試験期間中でして、一昨日試験があったんです。

ボールペンでそのまま迷いなく書けるほどの力量があれば、問題ないんでしょうけど、残念ながら私にはそれはない。

 

日本でもボールペン指定の答案用紙を二重線だらけにしていた私が、

英語の壁がある今、ボールペンで試験に臨めば、二重線をさらに増殖させる結果に終わることは目に見えている。

 

そこで、本気で筆箱の捜索活動を始めたわけです。

全てのカバンを調べ、引き出しを開け、

泥棒が金目のものを荒らしたぐらいの状態にして探したわけです。

 

でも出てこない。

 

きっと落としたんだろうな。

リュックの外ポケットに入れてることあったから、チャックが開いてて落としたんだろうな。

 

落としたとして、

道端に筆箱落ちてるって結構面白い。

革って自然に還るのかしら。

 

革は還りそうだけど、中のペン達は化学物質の塊だろうから、還らないだろうな。

それは罪が重い。

筆箱落とした罪は結構重い。

 

それとも、部屋に小人が住んでて、小人界にでも持ってかれたのかな。

コロボックル的な。

アリエッティ的な。

 

 

実際問題クルトガと日本製の消しゴムがないのはつらい。

 

クルトガの中毒性ってすごくないですか。

一回あれに慣れてしまうと、あれなしでは生きれない体にされる。

 

クルトガが世に出はじめた頃、最初は抵抗してたんです。

なんか書くときグラグラする〜て普通のシャーペンにしがみついてた。

クラスの流れに逆らってた。

 

でもいつからか、あの感覚にやみつきになって、今じゃ立派なクルトガ教信者。

 

 

だから、要するに、何が言いたいかって、

 

クルトガが欲しいの!!!

 

 

トロント行けば売ってるんだろうか。

でもアルファベットにクルトガって日本語に比べて必要性薄い気がする。

 

画数が多くて初めて本領発揮するから、クルトガって。

てゆうか、それ以前に、




文字の線を均一の太さにしようとか考えた事なさそう。